その花萎れるまで

 憔悴しきった様子で黙り込む幼馴染の姿というものを、その日、怜は初めて目の当たりにした。

 肩の上でぱつんと切り揃えた黒髪に、少女と云うより子供らしい好奇心の光を灯す大きな黒水晶の瞳。簡素ではあるが粗末ではない着物に袖を通し、日本人にしてはやや大柄な父親の後ろに隠れてこちらを上目遣いに見上げる、妹分のような幼馴染。何にも興味を示す姿は世の穢れや屈折を知らずまっさらで、どんな事物にも先入観なく触れてゆく。そんな彼女だからこそ、怜を兄のように慕い怜の後ろをついて回る、可愛らしい振る舞いをしてくれるのが常であった。怜にとって幼馴染の彼女とは、つまり純粋無垢かつ活発な輝きを秘めた少女であり、今のように昏くくすんだ瞳の色を抱えじっと足先を見詰めるような、そういう存在ではなかったのである。

 小さな手が父親の上着の裾をかたく握りしめて離さない。海底に沈む砂のように白く、ふっくらとした子供の手は、とてもじゃないが似合わない煤汚れと擦り傷、黒ずんだ染みですっかり汚れていた。夕映えに照る黒髪の毛先がほつれ、おくれ毛がまろい頬に垂れかかっている。よく見れば、着物の裾は手足の素肌同様に黒ずんだ染み汚れを数多く作っており、一目にして痛々しささえ思える出で立ちであった。

 普段であれば真っ直ぐに怜を見上げ、隠し切れない好奇心と若葉のような好意に輝かせている黒水晶の瞳は、相変わらず己の足先を見詰めたまま少しも上げられない。怜はほとほと困り果てて、口元に何とも言えぬ苦笑を浮かべた。

 

 時は大正――

 第一次世界大戦による大戦景気により、大日本帝國の経済社会が好況へと転換し始めた頃。

 開業医である男とその幼い一人娘は、運悪く、怜の母親の問診へ向かう道中で大規模な列車脱線事故に巻き込まれた。

 

 それが近年稀に見る酷い事故であったと世に知られるのは、数日後、新聞社が挙って一面に取り上げてからである。

 怜は一足早くその惨状を生々しく実感することになった。いや、直接その事故現場を目にしたわけではないが、どんな状況にあろうと輝きを失わないのではないかとさえ思われた幼馴染の、あまりにも澱み切った虚ろな瞳から、それが如何ほどの地獄であったかは察せられる。

 列車の脱線事故が起きたのは、訪問診療日の昼頃だった。運悪く比較的乗客の多い時間帯だったこともあり、被害は相当なものになったそうである。列車という移動手段を失った男と娘は乗客の避難と応急処置に追われ、そこかしこに負傷者の転がる路線内で夜を明かしたと云う。その足で屋敷まで半日歩いて訪問診療へと赴いたのだから、医療人という人種の抱く誠意には感服する。大名華族にしては品に欠ける意地汚ささえ覚える怜の父親すら、到着の遅れに滲ませていた不満から簡単に掌を返してみせた。

 既にもうじき陽も沈むだろうといった時間だ。父娘は泊まりになるのだろう。客間の用意と問診のため母親の準備が進められる中、父親の背に隠れる彼女がいつものように怜へと歩み寄る気配はない。普段であれば、仕事の邪魔はするまいと問診の際に席を外し怜と共に過ごすはずが、今日はすっかり父親に引っ付き虫である。大人しげな風貌から想像できない突飛な行動に出ることもある彼女だが、こうして弱り切った姿にはどこか少女らしい奇妙な神聖さが滲んでいるような気がした。

 ともあれ彼女に昏い目など似合わない。いっそ恐ろしいほど物言わぬ幼馴染を前にして、怜は胸の裏を焙られるような心地がして落ち着かなかった。未だ父親から離れる素振りを見せない小さな手に、己の手をそっと重ねてみせる。彼女は小さく身動ぎし、目元に影を落とす前髪の毛先が微かに揺れた。厚手の上着に皺を残すほど力強く握り締めていた手をそっと解き、怜は自分の手と繋ぎ直させた。

 繋いだ手は見た目以上に酷く傷付いていた。親指の付け根には布に擦れて赤く腫れ、割れて欠けた爪の隙間は赤黒く汚れている。

 それがこびり付いた血の痕であると気付き、怜は思わず息を呑んだ。

「……ああ、おまえ。こんなに汚れて可哀想に。まずは手を洗って来よう。それとも手拭いを持ってきたほうがいいかな。それから服も……そうだ、姉上が着なくなった物があるはずだ。なに、他でもないおまえのためなら許してくれるさ。ほら、だから、おれと一緒に行こう」

 得体の知れぬ何かに追い立てられているような気分である。焦りに背を押され、思わず捲し立てるように言い切り、怜は小さな手を引いて歩き出した。

 中庭に面する廊下は橙一色に染まっている。硝子を嵌めた引き戸から西日が真っすぐ射しこんでいるのだった。引いていた手のかたく強張る気配が伝わってくる。怜は足を止め、ゆるりと後ろを振り返った。夕陽を反射する西側を向いた頬とは対照的に、藍色をした影の落ちる反対側の頬が異様に青白く見えた。まるで幽鬼のような表情である。

「……、怜、さま」

「何だい。気分でも悪いのか」

「わ、たし。わたしは」

 ――たすけられなかったんです。

 小さな唇がわななく。

 怜と繋いだ方とは反対の手が、着物をぎゅっと掴んで震えていた。動揺する視線は正面に向き合う怜ではなく、夕陽に染まった廊下ではなく、どこか遠い――幼い心のやわらかい部分に大きな傷を残した、いまだ乾ききっていない惨劇にしつこく囚われている。

「……」

 黒目の大きい、彼女の瞳が。

 怜を前にして、ほんの少しも怜を見ていなかったことなど、これまでにあっただろうか。

 自分の胸が内側から侵食されるような、底の知れない違和感が立ち昇った。首の裏にいやな汗を掻いている。ハッとして拭った掌もじっとりと汗ばんでいることに気付き、怜は首を横に振った。

「さあもう行こう。ほら、おいで」

 思わず声を張り上げると、青ざめた顔がびくりと引き攣って怜を見上げた。

 屋敷の中は嫌に静まり返っていた。口の中に溜まった唾を飲み込む音さえ聞こえてくる。普段であれば心地良い静寂が急に牙を剥いたようだ。いつもより小さく見える幼馴染は、力なく頷くのみで結局一言も発することはなかった。

 

 濡らした手拭いで彼女の手を包む。擦り傷に触れた布地が痛かろうに、彼女は大人しく黙ったまま、じっと拭われる手を見詰めていた。その瞳が無感動に凪いでいる様をちらりと見上げ、怜も声をかけることはしなかった。いや、できなかったと言う方が正しい。

 怜は幼い幼馴染に即興で物語を作り、語って聞かせてやることが好きだった。混じりけのない子供の瞳は嘘偽りなく雄弁に輝いたり萎れたりするもので、目まぐるしく変化する様を眺めることが好きだった。彼女は怜の言葉で大海を征く勇敢なる者と旅を共にし、金銀財宝の眠る砂漠の洞窟を歩き、また幽遠なる蓬莱や海神の国龍宮を訪れた。勿論、怜だってそのような世界を目にしたことはない。すべてが想像にして、所詮は同じ子供の浅知恵から作られたものである。それでも、彼女は怜の言葉に目を輝かせた。抑えられない好奇心に小さな両手を握った。怜の物語に心動かす一番最初の観客であった。怜にとって、物語を紡ぐという行為はそれを始めた一番最初から、何かしら反応が返ってくるものだったのである。

 小さな手の汚れを拭ってやりながら、怜は一体何を言えば目の前の幼馴染が生き生きとした反応を返してくれるだろうかと思考を巡らせた。憔悴しきった彼女をそのままにしておくことに、何やら得体の知れぬ強い抵抗感を覚えたからであった。こうしている今も、伏せられたまつ毛の壊れそうな繊細さが、脳裏にちらちらと蘇って胸の内が落ち着かない。それがどういった類いの感情であるのか、そもそも善いものか悪しきものなのか、その判断すらつかないことが薄気味悪くもあった。

 焦りにも似たそれから目を背けるため、怜に出来ることは幼馴染の好奇心を引き出す話を考えるのみであった。小さな手を拭ってやるうち、手拭いは薄黒く染汚れを作ってゆく。その様をぼんやり見つめながら、怜はほとんど思い付きのように口を開いた。

「おまえ、すっかり親父さんのようじゃないか」

 小さな爪がぴくりと震える。

「おまえの親父さん……先生の手は、清潔だが働き者の手をしている。細かい擦り傷や、書き物をして作ったのだろうペンだこや、あかぎれや……おれはあの人の手を見るたびに思うよ。人の素晴らしさというものは、肩書や名前ではなく、行動とそれに伴う肉体の変化に現れるのだろうと」

「……」

「今のおまえの手は、あぁ、まるで先生のようだ。おまえのような女の子に酷なことをと云う人もいるかも知れないがね、おれは好きだよ。おれの幼馴染殿はなんと立派なことだろうと、誇らしくすら思う」

「……すき……」

 僅かに呟いた声は掠れていた。

 怜は弾かれたように顔を上げる。俯きがちな幼馴染の顔を見上げ、すぐさまそれを後悔した。

 彼女は口元に微かな笑みを浮かべていた。先よりも距離が近いことでよくわかる、涙の痕跡がくっきりと目に焼き付くようだ。擦り切れた目を伏せ、薄らと開いた唇が申し訳程度に弧を描いている。愛想笑いにも満たない、自嘲にも似た表情であった。

「わたしは、そうは思えません」

 彼女はきっぱりと言い切った。

 普段は穏やかな、今は深く傷ついた瞳の奥に、決して絶えない苛烈な炎が弾けていた。不本意に手を伸ばせば火傷となって残るだろう。踏み込んではならない場所へ立ち入った、何よりの証拠だった。

 手を拭うために立ち寄った水場は屋敷の一階東側に位置していた。日が暮れると途端に影が濃くなる場所である。ひたり、ひたり、と静かに水の滴る音が響き、蛇口をきつく閉めなかったことをぼんやりと思い出した。裏の勝手口の扉が薄ら開いており、吹き込んできた夕方の風は妙に冷たく、その冷気が足元から染みてくるような気がした。

 汚れと傷を拭われた手が、怜から手拭いをそっと取り上げた。軽くはたいて折り畳み、水場のタイルにかける。怜を振り返ったその顔を一体何と形容すれば良いだろう。自分と彼女との間に明確な一線を引かれたような、手酷く突き放されたような感覚に、怜は強く動揺した。

 拳を握り立ち上がる。こんな時でも怜の口から出てくる言葉に澱みはなかった。

「なあ、おまえ。少し外を歩かないか」

「……外、ですか」

「そう。少し夕日を見に行こう。ほら、裏の芒はきっと今ごろ綺麗だから。何、少しくらい出たって怒られやしないよ。もしそれでおまえがお叱りを受けるなら、おれがなんとかするから」

さあ、と手を差し伸べる。

「おいで。一緒に行こう」

 彼女はゆっくりと瞬き、怜の顔を見上げ、小さく頷いた。

 怜は控えめに繋がれた手を握り返した。離すつもりはないのだと伝えるように。触れた肌は指先までひんやりと湿っていた。

 

 屋敷の裏に広がる芒野は一面夕日に照らされ、まだ背の低い怜と彼女が並ぶとまるで大海を前にしたような心持になる。夜の気配を運ぶ冷えた風がすうっと吹き抜け、繋いだ手の温さが際立った。重そうに頭を垂れる穂がさわさわと揺れ、夕日に照ったその内へ分け入れば小さな人間ふたりなど足先から同じ色に染まりそうとさえ思われる。怜は後ろを振り返ることもせず、繋いだ手だけは離さないまま、どこへともなく黙って足を動かした。

 都市部の中心の喧騒からは遠く、此処にあるのは人の手が入りきっていない純朴な景色だ。芒の揺れる微かな音と、小さな下駄が畦道を擦って歩く音だけが聞こえてくる。さっぱりした白のシャツに吊りズボンという洋装の怜に対し、幼馴染は着物の裾を蹴って歩いていた。一面の芒野の中においては彼女の方がむしろ正しい存在であるような気がしてくる。

 ふと、繋いだ手が強く引かれた。

 怜は足を止め、しばし逡巡したのち後ろを振り返った。夕日を反射するまろい頬を見て、手を引かれたのではなく彼女の方が歩みを止めたのだと理解する。芒野をぼんやりと見遣る横顔の、眼球の生々しいまるさにそこはかとなくグロテスクさを覚え、己の内臓を撫で擦られたような気持ちになった。ぱちり、と、緩慢な瞬きの軌跡から目が離せなくなる。自分が何に関心を奪われているのか、怜はいまいち理解できていなかった。憔悴しきった様子でやって来た幼馴染を目にした時からその奇妙なざわめきが収まってくれず、ここまでどうにか気を紛らわせようとしてきたが、いくら目を背けても足を早めても、それは執拗に怜の指先や足首に巻き付いて離れてくれる様子はなかった。

 足元へと忍び寄ったその違和感は、じわりと怜の内側へ浸食した。足元にぬうっと伸びる二本の紫紺の影から、得体の知れぬ何かが這い上ってくる。怜はそれを振り払うすべも、その正体もまだ知らなかった。

 繋いだ指に力が籠る。

 どこか夢うつつをさ迷っていた幼馴染の瞳が、一瞬の間のみぱっと白い光を取り戻し、弾かれたように怜の顔を見上げた。口の端に未だ残る強張った震えを拭うため、親愛なる兄として、怜は思わずその手を伸ばしていた。柔く白い肌へ、指の腹が直に触れる。引き攣った口角を撫で、まろい頬を包み――怜の手は自然と首元に滑り落ちた。夕日が傾き、彼女の喉笛にくっきり落ちる指の形をとった影は底が見えない沼のようでもあった。怜は自分の呼吸が意味もなく浅くなることを、己の皮膚の下で血管が大きく蠢く気配を感じた。肩の上でぱつんと切り揃えた彼女の黒髪の毛先が、手の甲にちらちらと触れる。掌にじっとりと馴染む人間の体温が酷く生々しくて、ぞっとするほど心地よい。この薄い皮膚の下に詰め込まれた赤黒い内臓を己の手で引っ張り出し、掻き抱きたいと思った。

 黒水晶のようにまるく、純粋で、曇りなきまなこが怜を見上げている。

 真っ直ぐに。

 一寸の迷いもなく。

 その直線的な視線を受け取り、怜は弾かれたように己の手を彼女の細い首から引き離した。彼女と繋いだ方の手はそのままに、彼女の首を、まるで絞めるようにあてがったもう一方の手を胸の前へ引き寄せて、怜はただ浅い呼吸ばかりを繰り返した。

 ――おれは、今、一体何を考えていた?

 鎌首をもたげた仄暗い感情の正体に、怜は思わず薄ら笑いを浮かべた。音もなく歩み寄り怜の手足を支配するそれが、己の内側から湧き上がるものだったのだと、誰に言われるでもなく鮮明に理解したからであった。

「怜さま」

 鈴を転がしたような声が、夕風の隙間にそっと溶け込む。

 彼女と繋いだ手の温度があまりにも馴染んでいたものだから、その指先が離された時、無性に物寂しさを覚えた。凪いだ黒水晶の瞳は確かに酷く傷付いたような、小さな擦り傷を多くこさえた色をしているというのに、怜を見上げる視線の温度だけはいつまでも変わっていなかった。そんな当たり前のことに、一体なぜ今まで気付いていなかったのだろうと不思議に思う。今の彼女は酷く傷付き、それが癒えるだけの時間を必要としている。怜に対して何か彼女の心の内側が変化したわけではない。それなのに、まるで彼女が別人のように思えて怜の胸がざわついたのは、彼女ではなくむしろ怜の方に問題があったと考えるほうがごく自然である。怜は憔悴しきった幼馴染の姿に、心のどこかで高揚感を覚えていた。

「怜さまは、」

 喉元までせり上がった言葉が上擦っている。彼女は着物の襟の前で両手を硬く握り、僅かに足元を見下ろした。伏せた瞼の薄い皮膚に這う血管を、怜はざわめく胸をなだめすかしながら黙って見守った。

「怜さまは、わたしを誇らしいと云ってくださいました。まるで父さまのようだと、人を助ける手をしていると、云ってくださいました。けれども、わたしは」

 ふと、廊下で見た彼女の表情を思い出す。

 ――たすけられなかったんです。

 列車の脱線事故は相当に酷いものであったらしい。彼女の父親は、腕も人柄も良い優秀な医者であった。事故に巻き込まれ移動手段を失った翌日でさえ、己が担当する患者のために幼い娘の手を引いて半日も歩き通す、妥協をしない厳しさを兼ね備えた男であることを、怜はよく知っている。幼馴染がその父親に強く憧れ、深く尊敬し、精一杯にその背中を仰いできたことを、怜はよく知っている。だから彼女が軽症の客の応急処置を任されたのだと話したとき、それほど理不尽なことだとは思わなかった。

 幼馴染の言葉で紡がれる世界を、怜は己の想像力をもって補い脳裏に浮かび上がらせた。横転した列車、ひずんだ線路、彼方此方に散乱する瓦礫、人、あるいは肉片。血痕。頽れる人、力なく泣き続ける人、助けを呼ぶ声、悲鳴、苦痛に呻く声、降って湧いた理不尽に喘ぐ声。耳を塞ぎ、目を覆い隠したくなるような地獄絵図だったに違いない。それでも彼女は懸命に手を動かし、折れそうになる心を奮い立たせた。

 横倒しになった列車の一部分、瓦礫の山の手前に泣きじゃくる子供がいた。まだ5つか6つ、彼女よりもほんの少し幼い男の子だった。かれは瓦礫に凭れ掛かるようにして動かない、母親と思われる女性の着物を掴んで泣いていた。母親の手足は擦り傷と黒く変色した血に汚れ、力なく投げ出されていた。その手を揺する子供もまた、必死に声をかけるぶんだけ薄汚れている。躊躇いを覚えたのは一瞬で、彼女は意を決してその親子へ駆け寄った。怪我の具合を確認すると、その母親はどうやら右腕を折る大怪我こそしているものの、ただ気を失っている様子であった。その旨を泣きじゃくる子供にどうにか伝え、応急手当を済まし、こう声をかけた。

 ――大丈夫。お母さまはきっと助かる。あなたのことを、また抱きしめてくれる。だから泣かないで、お母さまの目覚めを待って、それから安全なところへ逃げて。

 ゆっくりそう言い聞かせるうち、子供も平静を取り戻したようだった。涙の跡の残るあどけない頬を拭ってやり、それから彼女は父親の手伝いのためその場を離れた。

 夜が訪れ、悲嘆の声が薄れぬうちに明けた。東の空が白み始めた早朝、仮眠も挟まず手当てを続けた医者の父娘は、怜の屋敷へ向かうため事故現場を離れることになった。

 どうにか瓦礫を除けただけの線路を歩いて進むうち、ふと、彼女の目にそれが留まった。

 

 幼い子供の身体を折れた腕で抱く母親が、その頸を切って死んでいた。

 

 親子の亡骸を確認した父親は、子供は頭を打ったせいで死んだのだろうと教えてくれた。頭部の打傷は後になって大事になる場合がある。震える手で子供の髪を掻き分けると、確かに腫れぼったくなった出血の痕跡が確認できた。つまり、事の顛末はこういうことである。真に重症だったのは母親ではなくその子供の方であり、かれは無念にも母親が目覚めるより早く事切れた。目を覚ました母親は、己の傍らで冷たくなっている我が子を見て、絶望し、その果てに己の頸を切ったのである。抱かれた子供は、まるで蹲って眠ったような体勢のままだった。屍体は時間が経つと硬く、動かなくなる。子供の方が先に死んだ証拠であった。

 二人の亡骸の側には、折れた右腕の添え木として使った瓦礫の木片が血を吸って赤黒く変色し、無造作に転がっていた。母親は折れた手で子供を抱いている。頸に残る傷は裂傷とするには醜く、何度も突き刺し何度も抉ったのだろうことが素人目にもよく分かった。多くの人がそうであるように、彼女の利き手は右手だったのかもしれない。己の頸を切るのに慣れなどあるはずもなく、不器用な左手で添え木を使い、母親は我が子を喪った絶望と想像を絶する苦痛を味わいながら死んでいったのだろうと思われた。

 

「これがどうして、父さまのように人を助けられたと、助けた人の手であると云えるでしょうか」

 彼女は震える手で顔を覆った。声も震えていた。

「怜さま」

 細い指の隙間から覗く瞳の色は変わらない。怜を真っ直ぐに捉え、見上げている。純粋な憧れと好意が根底にある、目が焼けそうになるほど眩しい光を宿していた。

「わたしはどうすればよかったのでしょう」

 そう怜に問いかける彼女とて、どうするすべもなかっただろうことはきっと理解している。その場にいたのが彼女ではなく父親だったとしても、おそらく同じような結末へ辿り着いただろうと、怜は他人事のように落ち着いて考えた。その場にいるすべての人間に、起こった惨劇をどうにかするすべなどなかった。万能など、奇跡など、そう都合よく人の手に堕ちてくるものではないと怜は知っている。病に苦しむ母親の嘆きは、怜がいくら祈ったとて、医者の叡智を振りかざしたとて、ただの一度も消え去ったことはない。

 その事実は怜よりむしろ彼女のほうがよく理解しているに違いない。父親の傍でその仕事を支えるならば、人の死に触れる機会だって、怜よりも確実に多いだろう。それでも彼女が怜を見上げて惑うのは、あまりにも露骨に突き付けられた己の無力さとやり切れなさを、幼く脆い心がまだ受け入れられないからだ。

 夕陽が傾き、山間に沈みつつある。足下に伸びる影が時間が経つにつれて濃くなってゆく。怜は幼馴染の手を両手で掴み、包んだ。強張った指先を握る。ゆるりと顔をあげた彼女の瞳を見詰め、一言だけ口にした。

「――生きていることは素晴らしいことだ」

 まるい瞳がかすかに揺れる。

 ひび割れた唇が薄らと開き、わななく。

「おまえが生きていてくれて、こうしておれの手に触れてくれて、嬉しいよ。おれには……おまえが味わった苦しみをおんなじように理解することは、正直に云うと難しい。でもね、これだけは確かだ。おれは、おまえが今ここにいてくれることを、とても嬉しく思っている」

 彼女が求める言葉を、慰めを、怜は淡々と口にした。怜自身、それが己の口から出て来た言葉であることを信じられないほど、自然な口振りであった。それが己の内側を曝け出すような言葉では決してないことを、怜は他の誰よりも理解していながら、彼女に語りかけることを止めなかった。親愛なる兄として悲嘆に暮れる妹分を憐れに思ったからかもしれない。弱りきった彼女を励ます方法がこれしか思い浮かばなかったからかもしれない。あるいは、ぞっとするほど不安定に揺らぐ少女を前にして、これ以上己の内側に居る本能的な何かを留めおいておくことができないと――そう直感していたからかもしれなかった。

「大変な思いをしただろう。怖い思いをしただろう。それでも足を止めずに、ここまで来てくれてありがとう。おまえが生きていてくれて、おれは嬉しいよ。だからきっと、生きていることは素晴らしいことなんだ。そして、たとえおまえや親父さんが助けられなかった命があったとしても――おまえが信じ、願った希望というものは、決して失われてなどいないと、おれはそう信じているよ」

 包み込むように握った手を緩め、指先を絡めた。一瞬強張った手が次第にほぐれてゆくのを感じながら、怜はゆっくりと瞬いた薄い瞼の動きをじっと見つめた。

 小さな唇がほとんど聞こえないような小さな声で、一言だけ呟く。

 ――生きていることは、素晴らしいこと。

 そう紡いだ幼馴染の顔を見下ろしながら、怜はなぜだか急に、己は言葉を誤ったのではないかと理由もなく不安に駆られた。しかし一度口から出た言葉が元に戻ることはなく、なかったことにもできない。怜は黙って幼馴染の手を繋ぎ直し、芒の影が騒めく屋敷への畦道を、やがていつものように手を引いて歩き出した。

 

 帰り路、彼女は路肩に咲いた一輪の白菊を摘んだ。どこにでも咲く小さな野花は傷だらけの小さな手に握られ、今は怜の部屋の窓際で硝子瓶に活けられている。白菊を摘み取った彼女は具体的なことを何も言い残さなかったが、それが弔いの花であることを、怜はなんとなく察していた。ただ水に晒したのみの白菊は父娘が去った数日後に萎れ始め、あっという間にくたりとその茎を折り曲げた。

 萎れた白菊の花弁にはわずかに水気が残っており、触れた指先には柔らかな生命の名残がある。なんとなく冷えたそれを撫でるうち、脳裏に浮かぶのは力無く斃れるふたつの人影だった。冷たくなった屍体を抱き己の喉を掻き潰した母親と、その腕に抱かれる哀れな子供の姿である。それは次第に姿形を変えてゆき、怜は件の親子ではなく己と幼馴染を思い浮かべるようになった。二人はかたく手を取り合い、幼馴染の華奢な首には青黒い絞首痕が残っていた。怜は穏やかな心持ちで幼馴染の死顔を見下ろし、口元に薄い笑みを浮かべていた。

 全てくだらない連想である。怜は虚妄の景色を振り払い、萎れた白菊を裏庭に捨てた。

その花萎れるまで|帝國スタア|怜