恋人未満のイントロ

 EROSION家のお風呂の順番は概ね決まっている。まず潔癖症のビャクヤが一番風呂に入り、その次に熱めのお風呂が好きなネィト、特にこだわりのないトキシンとクレハのどちらかが入り、お湯がぬるくなったところでヨル、一番最後にわたし。個人的には熱めのお湯が好きなので、親切なヨルは追い焚きボタンを押してから出てくれる。この中でわたしが最後になったのは、これまで兄弟たちの中で自然と築かれたルーティンを崩すわけにはいかなかったから、そしてわたしのお風呂の時間が皆に比べると長いほうだった、という理由もある。

 その日も一番最後のお風呂に入り、軽くだが掃除も終わらせた。とりあえず脱衣所に置いた化粧水をばしゃばしゃと全身につけてから、濡れた髪にタオルを被ってリビングに戻ると、思わぬ人物が待ち構えていた。

「やっと出てきた」

 ソファに座ってスマホを弄っていたクレハが立ち上がり、こちらへ向かってくる。お風呂の後、クレハがリビングに残っているのは珍しい。いつもなら自室に引きこもってゲームをしているからだ。

 色の薄くて細い髪をさらりと流し、やや猫背で前屈みになる姿勢でこちらを見下ろしている。普段はやる気なく脱力している姿を見ることが多いからか、こうして目の前に立たれると身長差からくる圧にやや気圧されるようだった。末っ子らしく子供っぽい一面の印象が強いクレハだが、少なくともみてくれはちゃんと男のひとである。

 何の用事だろう。少しだけ嫌な予感が背後にひたりと迫るが、相手は他でもないクレハだ。少なくともトキシンのような常軌を逸した手フェチの変態ではない。一先ず話を聞くべきだろう。

「ンなあ。君、お風呂上がりにいつも塗ってるやつ……なんだっけ……ボディクリーム? ってやつ、今日も使うの?」

「それは、まあ、うん」

「じゃあそれ、今日は俺が塗ってあげる。ほら、はやく君の部屋行こ」

「えっ」

 ガシャン! とリビングに大きな物音が響く。クレハの背後に、マグカップを握り潰し青白い顔で茫然とこちらを見上げるトキシンと、キッチンから鬼の形相で顔を出すヨルの姿が見えた。

 末っ子の思わぬ爆弾発言に、激震が走っている。それは背後のふたりだけでなく、直撃を受けたわたしだって同じなわけで、思わず反応が遅れたことも仕方がないだろう。ただひとり事態の重さを理解していないクレハは、不思議そうに首を傾げて続ける。

「……? なにぼーっとしてるの。ンなあ、俺はやく君のこと触りたいんだけど」

 今度はビャクヤが揶揄うような口笛を吹き、ネィトがわざとらしい咳払いをした。

 クレハの背後から突き刺さる四人それぞれの視線が痛い。

 ようやく正常に働き始めた脳が、どうにか返す言葉を引っ張り出す。

「い……いや、あの。あのね、クレハ、前にも言ったけど……〝そういうこと〟はちゃんと好きなひと同士でなきゃ――」

「はあ? 意味わかんない。だって君が言ったんでしょ、恋人同士なら〝そういうこと〟してもいいって。だからいいじゃん」

 平然とした様子で繰り出される論点のずれた言い分に、思わず両手で頭を抱えた。これは、余計な説明をしたわたしが悪かったのだろうか。クレハはその見た目以上に酷く幼い言動が目立つ。クレハのわがままは世界が自分の都合を中心に回っていると本能的に信じるような、子供じみた感性に近い。少なくとも過去のわたしが伝えたかった一般的な恥じらいや他人との距離感について、わたしと同じように理解してくれたことはなく、わたし一人ではいつも誤解を解くことに失敗している。その純粋で混じりけのない感性からクレハの綺麗な音楽が生まれているのだろうとは思うのだが――如何せん、わたしの実生活に及ぶ影響が大きすぎる。EROSION家は一体どんな教育方針でいるのだろうか。責任転嫁したくなる。

 返す言葉に迷い、口を噤んでクレハの顔を見上げる。夜明けの西の空をほんのりと写し取ったような色をした瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめ返していた。淡々とした涼しげな目元を、やや長い前髪が少しだけ隠している。クレハはそのどこか眠たげに伏せた眼をとろりと甘く細め、首を傾げてみせた。白い指先がわたしの頬に伸ばされ、すうっと首筋を撫で下りる。触れた部分にクレハの低い体温が馴染み、お風呂上がりのしっとり火照った肌に染み込んだ。

「——、」

 思わず、息を詰める。

 こちらを見下ろすその眼差しが、あんまり甘く、綿菓子のようにふわふわしているから。

「ンなあ。はやく、君のことたくさん触りたい。恋人……に、なったんだから、いいでしょ」

 喉元までせり上がっていた文句を、そのまますっかり呑み込んでしまった。

 

「ちょっ……ちょっと待ってクレハ、ねえっ、俺そんな話聞いてないんだけど!」

 完全にクレハのペースに持っていかれたところを、トキシンが慌てた様子で間に割って入って来る。各々の用事で自由に過ごしていた他の兄弟たちもこちらの様子を窺いながらソファに座り直していた。助かった、と思うと同時に、これでは兄弟たちからの追及を免れないと予感する。大きな声で引き留められたクレハは怪訝そうに顔を顰め、そのままわたしの手首をゆるく掴んでしばらく離さなかった。

恋人未満のイントロ|CARNELIAN BLOOD|染狩クレハ