すきなひと

 ――付き合うならヨルがいい。

 思わずそう呟いて、自分が何を口走ったのか分からなくなった。視線は手元のノートに固定したまま、ひやりと一筋汗が流れる。冷や汗だ。自分が言葉を誤ったことだけを理解していた。

 旧校舎は閑散としている。古い木造建築の、ところどころ塗装の剥げた柱と一緒に昼食を摂ろうなんて思う生徒はわたしたちの他にひとりもいなかった。わたしは食にこだわりのある人間ではなかったけれど、埃っぽい空気の中で物を食べる気分にならないことは分かる。つまるところ、わたしがここにいるのはそれを強制されているからであり、徹頭徹尾わたしの意思というわけではない。

 意を決し、そろりと視線を上げる。弁当をさっさと食べ終えたわたしに対し、目の前に座る彼はまだ半分ほどを残していた。彼には食の好みがあるし、味覚音痴なわたしよりもこの時間を楽しみにしているのは自然なことだろうと思うけれど、いちいち味の感想を共有したがるのだけは困る。どうせ良し悪しの分からない卵焼きを口の中に突っ込まれたとて、たぶん美味しいのだろうという推測しか話せないのだから、彼の行為に意味なんてひとつもないのに。

 現実逃避のためにか、思考が脱線した。

 どんな態度が返ってくるか分からない――戦々恐々と震える想像に対し、トキシンは存外落ち着いているように見えた。穏やかな波が寄せては返す海の色、あるいは澄みきった空の色にも似ている青い両眼をぱちくりと瞬かせ、真っ直ぐに、あまりにも真っ直ぐにこちらを凝視している。しばらく置いて、トキシンは落ち着いているのではなく呆然としているのだ、と気が付いた。

 トキシンは時々まるで子供のような顔をする。きょとんと目をまるくして、その瞳に一切の邪気を映さない。それは誠実で、無垢なひとのする仕草だった。思い返せばトキシンが嘘を吐いた姿は記憶のどこにも思い当たらない。何もかも包み隠さず伝えてくることは浅慮で酷い振る舞いかもしれないけれど、わたしが決定的にトキシンを突き放すことができないのは、トキシンが悪意ある嘘を吐かないからかもしれない。

 目の前にある憎たらしいほど整った顔立ちには覚えがあった。ひとつ屋根の下で暮らすことになって散々顔を合わせているからということではなく、そう、わたしはトキシンのこの表情を知っている。

 ――「お前、俺のこと嫌いだったの?」

 これだ。今日と同じ旧校舎に無理矢理連れ込まれたあの時の。

「……えっ、と」

 途切れとぎれの声がこぼれ落ちる。その末尾は分かりやすく震え、力なく掠れていた。長い睫毛が伏せられ、白く透き通った目元の薄い皮膚に影を落とす。青眼が左右に狼狽え、手元をさ迷い、終ぞわたしのほうを見ることはなかった。

 トキシンは悪意ある嘘を吐かない。トキシンは、嘘を吐けない。嘘を吐くのが上手くない。

 今更になって、自分の発言の重みを思い知らされたような気持ちになった。

「そ……う。そう、なんだ。おまえは、ヨルのほうが……付き合う、なら」

 みるみるうちに萎んでゆく。普段は恐ろしい化け物か意思疎通のはかれない危険人物にしか見えない男が、あまりにもしゅんと肩を落として意気消沈する様は、困惑よりも恐怖に近い違和感を掻き立てた。これでは、まるでわたしのほうが悪者みたいじゃないだろうか――いや、確かに先のわたしの言葉は悪かったのかもしれないけれど――、それでも、今のしおらしい態度とこれまでトキシンにされたことを考えればどう差し引きしたって嫌悪感のおつりがくる。だから、わたしが良心を痛めるのはおかしい。おかしいはずだ。

 それ以上この場に居続ける気分にはなれなくて、わたしは広げたノートを乱暴に閉じて立ち上がった。鞄の口にノートと筆記用具、空の弁当箱の包みを突っ込んで、トキシンに背を向ける。廊下に飛び出したところで呼び止める声を聞いたような気がしたけれど、トキシンが後を追いかけてくることはなかった。どこに逃げても隠れても何故だかすぐに見つかるから、トキシンから無闇に逃げ回るのは疲れるだけで無駄なことだと知っている。わたしがひとりで居られるのは、トキシンにわたしを追いかけて捕まえておく意思がないからで、そのあまりにもあっさりとした現実に思わず胸の内側がざらりと逆撫でられた。

 今のわたしに自由はない。トキシンがわたしを捕まえておくのは彼がそう命じられているからだし、得体の知れない――過去、わたしもそこに居たはずだけど――、海と国境を超えた島とやらに連れて行かれる未来だけが確定している。運命だとか、過去の思い出だとか、そんな綺麗な言葉で片付けられる状況じゃない。結局わたしという存在はトキシンたちにとって奇特な血の容れ物でしかないし、ファーター何某の捜し物である時点で、もはや囚人も同然の存在だ。

 分かっている。分かっているのに、脳裏に浮かぶのは力なく項垂れた、普通に傷付いたような表情をしたトキシンの姿ばかりだった。

 首を振って意味のない想像を掻き消す。昼休みのうちに終わらせておこうと思った午後の授業の課題は、まだ半分が白いままだ。次の授業時間にでも内職しておこう。これだって、本当なら昨日の夜に終わっているはずだったのに、他でもないトキシンに血が欲しいとしつこく強請られてそれどころではなくなったのが原因じゃないか。やっぱり、被害者のわたしが加害者のトキシンに後ろめたさを覚えなきゃならないのはおかしい。

 本校舎の方角からは、予令の鐘が無機質に響いてきていた。

 

 トキシンとクレハはわたしと同学年だけど、クラスが違う。EROSIONのライブで彼らと再会を果たした後、わたしの身元を調べたらしいトキシンは「どうして今まで気が付かなかったんだろう」と不思議そうに笑っていたが、それはおそらくわたしが意図的に彼らを避けていたことが原因のひとつにあると思う。ドイツからやって来たという兄弟たちは良くも悪くも有名人で、その中でも特にトキシンの噂はすごかった。顔立ちや立ち居振る舞いこそ優しい王子様みたいに見えるかもしれないが、物にやつ当たりをする悪癖は強烈で、転校初日から周囲をざわつかせていた。勿論、他の兄弟たちの印象も凄まじいものがあるが、その中で特にトキシンが目立って見えたのは、落ち着いているときと荒れているときの差が同じ人間とは思えないほど苛烈だったからだろう。それにしたって――特に、あのライブではあんなことがあったのに――、バンドマンとしての人気が失墜することはないのだから、世の中の懐は案外広いのかもしれない。

 そう、つまるところ赤刎トキシンという男には一定数のファンがいて、また遠巻きにされる異質な存在でもあった。だからこそ、わたしはトキシンが平穏な日常生活に付きまとってくることを避けたかったし、極力トラブルに巻き込まれないよう意図的に行動してもいる。昼休みや放課後に自分からトキシンの元へ行くのは、そのほうが人目を忍びやすいからだった。あまり周囲の目を気にしないトキシンは、それでも自分にファンがついていることを知っているのだろうけれど、その上でわたしと一緒にいようとしてくる節がある。少し考えればわたしがトキシンのファンにどう誤解され、どういう仕打ちを受けるのかくらい想像つきそうな気がするが、きっとトキシンは想像できないのではなくそうなっても本当に気にしないのだろう。確かに、結局のところ困るのはわたしひとりだけだ。どこまでも自分勝手で、同時に一般的な良識や想像力を伴っているぶん一層たちが悪い。

 ホームルームを終え、あとは下校するのみ。わたしが暮らしていたアパートはトキシンに特定されているし、きっとどこへ逃げてもすぐに居場所がばれるだろう。そうなる前に、生徒の寄り付かない旧校舎へ移動して、トキシンと合流するほうがいい。彼の言うことに従うのは癪だけど、実際そうするしかないのだから、いつもだったら真っすぐ旧校舎へ移動するのだが――正直に言って、気が重い。今の状況でトキシンと顔を合わせる勇気がなかった。

 夕方のグラウンドに体育会系の部活動の賑やかな声が遠く響いている。今はとにかく、トキシン以外のことを考えていたかった。ふと、わたしも何か部活に参加すれば彼らに縛られる時間が減るだろうかと思いついて――やめた。ネィトの手伝いで呼びつけられる頻度もあるし、もしわたしが部活に所属すると言い出した時、トキシンなら監視のため自分も参加するだとか提案しかねない。……だめだ。結局トキシンのことを考えている。

 何もしないで教室に残っている生徒はわたしだけだった。刻々と時間が過ぎてゆくのを眺めながら、どうにも重い腰を上げられず、机に突っ伏して額を擦り付ける。一体どうしてわたしが悩まなければならないのだろう。わたしが何か悪いことでもしたのだろうか。いや、確かに、トキシンは普通に傷付いたような表情をしていたけれど。

 トキシンの、あまりにもあからさまに感情の滲み出た顔が、瞼の裏にちらちらと瞬いて煩い。記憶を巻き戻す。――「お前、俺のこと嫌いだったの?」必要であれば暴力を振るい得体の知れない存在の命令で拉致してきて、所構わず手に欲情するし、我慢なんてできないし基本的に話を聞いてくれないし、一体どうして嫌いにならないと思えるのだろう。

 ――「そ……う。そう、なんだ。おまえは、ヨルのほうが……付き合う、なら」

 本当に、心から傷付いたような声だった。思い返せば些細な言い合いというか、そもそも口喧嘩にもならないような話だったと思う。ヨルが学園祭の出し物でシンデレラ役をやったことから、なんとなく恋愛観の話になって、それで……そう。

 トキシンが四六時中傍にいるこの生活に慣れると同時に、得も言われぬ違和感も付きまとっていた。朝起きれば朝食の席にトキシンがいて、椅子を引いて隣に座らせてくる。学校へ着くまでの通学路は一緒で、日除けになってくれたり車道側を歩いてくれたりする。昼休みは旧校舎で一緒に過ごすし、放課後それぞれに予定がなければ一緒にあの家まで帰る。おやすみ、また明日、と当然のように笑いかけてくる。本当に、生活のどこを見てもトキシンがいた。まるで、普通の恋人か何か、もしくはそれ以上に。

 でも、別にトキシンはわたしと付き合っているわけではないし、ましてや恋人なんかじゃない。

 この日常には明確な終わりがある。トキシンはあくまでわたしをファーターへ送り届けるため、監視のため、保護のため行動を共にしている。トキシンの気遣いがまるっきり嘘というわけではないのだろうが、その裏にはわたしを透かし見た目的意識しかなくて、それを隠そうとすらしていない。だから、いくらトキシンが恋人然と振る舞おうが、わたしの日常に馴染んでいようが、現実にそれ以上の理由や価値はない。

 付き合うならヨルがいい、なんて思わず口走ったとき、わたしは少なからず苛立っていた。砂糖菓子のように甘く、甘すぎて嫌気のさすようなトキシンの言動に。上辺だけ大事にされるくらいなら、いっそあけすけな言葉で傷付けられたほうがマシだ。たとえばそう、ヨルみたいに。たぶんわたしはそんなことを考えていた。

「――あれ? まだいたんだ」

 投げかけられた声にハッとして顔を上げる。教室の入口に不思議そうな顔をした友人がいた。昼食や放課後を一緒に過ごしていた彼女は、わたしにEROSIONのライブを勧めてくれた本人だ。

「珍しいね。最近は昼休みも放課後も忙しそうにしてるし」

 放課後は仕方がないにしても、昼食の誘いまで断り続けていることに僅かな罪悪感が滲んだ。トキシンには彼女のことも誘っていいと言われているが、トキシンがいかに危険人物かわかった今では、EROSIONのファンである彼女を近づけすぎるのもよくないような気がしていた。

 なぜだか胸に詰めていた息を吐く。声をかけられて真っ先に浮かんだのは、トキシンが迎えに来たのだろうかということだった。

「今日はトキシンくんのところに行かなくていいの?」

 深呼吸の合間に予期せぬ発言を投げかけられ、思わず椅子を倒して立ち上がる。

 大きな音にか、それとも図星をさされたわたしの態度にか、彼女は一瞬目をまるくしてから、さぞおかしそうにからからと笑った。

「え、何。気付いてないと思ってた? わかるよ、それくらい。嘘つくのそんなに得意じゃないって知ってるんだから」

 理由をつけて昼食の誘いを断ったのはさすがに不審がられるにじゅうぶんだ。素直に謝ると、彼女は存外からりとした表情で首を横に振る。

「いーよ。そんなに気にしてないもん。それに、あのトキシンくんと付き合ってるなら色々大変だろうし。ファンの目からしても、うん、なんとなく想像できる部分はあるっていうか……え、違う? 違うって、何が?」

 わたしとトキシンが付き合ってるってことが!

 と、素直に叫べたらよかった。傍目から見てわたしたちがそういうふうに見られることは、渦中にあるわたしが一番良くわかっていた。だって、そう、わたしだってときどき勘違いしそうになる。トキシンはわたしのことが好きなんじゃないかって――

 開けっ放しの窓から風が吹き込み、白いカーテンがばさばさと大きくはためいた。遠くから部活動中の生徒の声が聞こえてくる。神無町の比較的高台にある鳳心学院からは、その町並みを見下ろすことができた。今は使われていない旧校舎は本校舎よりも高く拓けた場所にあって、人の気配のないあの場所からの眺めは特に綺麗だ。

 放課後、今のEROSIONが練習場所のひとつにしている旧校舎。そこでひとり、ソロ曲を口ずさんでいたトキシンを見たことがある。ぼんやり外の景色を眺めていたあの横顔は、同じ街の景色を眺めているはずなのに、わたしとは違うものを遠く見つめているようだった。

 あの時、一体トキシンは何を見て、何を考えていたのだろう。

「ん、よくわかんないけど……トキシンくんが待ってるんじゃない?」

 立ち尽くすわたしに、彼女は不思議そうに首を傾げた。

 トキシンは、本当にわたしのことを待っているのだろうか。昼間、わたしがトキシンを傷付けたのは事実だろう。そうでなくとも散々冷たくあしらっている自覚はある。いつトキシンが愛想を尽かしてもおかしくないくらいには。

 でも、じゃあ。

 ――わたしはトキシンに嫌われたくないの?

 ふと浮かんだ言葉が、あまりにもすとんと胸の中に落ちた。あちこち絡まって収集のつかなくなった思考が、波紋を広げた後静かに凪いでゆく。わたしは、トキシンに嫌われたくなかったのか。確かにトキシンは話を聞いてくれないし、必要なら暴力も振るうし、常軌を逸した手フェチで気持ち悪い部分もあるし、我慢なんてしてくれないけど。それでも、悪意のある嘘は吐かない。差し出された優しさのすべてが嘘というわけではない。身を挺してまで庇ってくれたあの傷も、雨に濡れて連れ戻しに来てくれたあのライブの後のことも、ただファーターのためという一言で片付けられない意志があった。もはや見ないふりをしていられない、トキシンの本心が、そこにはあったはずだった。

 居ても立っても居られなくなり、わたしは友人に一言断って教室を出た。背中に受けた激励の言葉に手を上げて返答し、旧校舎へと真っ直ぐ走る。

 上がった息を整えながら、伸びっぱなしの雑草と、古びた木材の匂いを吸い込んだ。

 ――トキシンって、わたしのこと好きなの?

 そう訊いたときの表情を想像し、首を振る。どちらにせよ引き返せない。でも、それでいい。

 旧校舎に足を踏み入れると、どこからかトキシンの歌声が聞こえてきた。

すきなひと|CARNELIAN BLOOD|赤刎トキシン