あの子に素敵な花束を

「いてっ」

 思わずそう呟くと、向かいに座っていたトキシンが弾かれたように顔を上げた。有無を言わさぬ素早さで左手を取られる。その表情は真剣そのもので、嫌な予感がひやりと背筋に寄り添ってきた。

 トキシンはわたしの左手をまじまじと観察し――〝それ〟に気付いて目をまるくする。

「えっと……ト、トキシン?」

「あ? おいどうしたよクソトキシン」

「……」

「おい、聞いてんのか?」

 トキシンの隣でスマホを弄っていたヨルが怪訝そうに眉をひそめる。トキシンとヨルが喧嘩をするのは日常茶飯事だ。トキシンは煽り耐性が低し、ヨルは口が悪い。そしてお互いに遠慮がないとくれば、些細なことから諍いに発展するのは自然な流れだろう。いつもならヨルにとっては何気ない言葉に過剰なくらい反応しただろうトキシンが、珍しくだんまりを決め込んでいた。

 いや、より正確に言うなら違う。トキシンの意識はわたしの左手に注がれており、投げかけられる言葉が耳に入っていないのだろう。 トキシンの視線はわたしの左手、人差し指の側面部分に留められていた。ちょうど親指が触れる部分にぷつりと赤く発疹ができている。蚊に喰われた虫刺されの跡だ。それを無意識のうちに搔いた結果、引っ掛かった爪が存外深く肌に食い込んだのだった。

 並々ならぬ熱視線を受け、嫌な予感が増大してゆく。トキシンの綺麗な手に対する執着は異常の域に入ると、この身をもってよく知っているからだった。本人がいまだ黙ったままなのも相まって、得も言われぬ不安が胸の内でむくむくと膨らむ。

 一縷の望みに縋り、わたしはヨルの顔を見上げた。

 ヨルは心底面倒くさそうな顔をした。片手でがしがしと後頭部を掻く。それから大袈裟に肩を竦め――普段よりも声を強めて、トキシンの耳元へ向け容赦なく叫ぶ。

「……チッ、クソ、おいこのFxxkin'野郎! 無視してんじゃねーぞ!」

 さすがにびくりと肩を震わせたトキシンは、口をへの字に曲げて明確な不満を顔に浮かべた。

「ちょっと、ヨル。急に大きな声出すなよ」

「ッハ、こうでもしなきゃアンタが何しでかすか分かったもんじゃねぇからな」

「なんだよそれ? まるで俺が悪いみたいな言い方じゃないか」

「ハナからそうだっつってんだろ。このド変態野郎が」

「なっ……はあ⁉ どういう意味だよ!」

「ちょ、ちょっと。ちょっと落ち着いて!」

 ヨルに倣って声を張り上げ、トキシンから左手を引き戻す。わたしが望んだのはトキシンと建設的な話し合いをすることであり、ふたりを喧嘩させたいわけではない。

 とりあえず両手を背中に庇った状態でトキシンから距離を取ると、ようやく本人も何に警戒されているのか思い当たったようだった。

「ねえ、そんなに離れないで。俺、まだ何もしてないよね」

「〝まだ〟?」

「……、……わかった。お前の指を舐めたり噛んだり、しないから」

 でも、とトキシンは不満げにこちらを睨む。

「今のはお前が悪いんだよ? お前が、俺以外に血を吸わせたりなんかするから……」

「蚊を相手に張り合わないでくれる⁉ というか、これに関しては不可抗力だと思うんだけど! トキシンやヨルだって蚊に喰われたことくらいあるでしょ⁉」

「ないよ」

「ねーな」

「ないの⁉」

 ふたりは合成獣だから? それはさすがに羨ましすぎる。

 いや、そうではなくて。脱線しかけた話に首を振る。

「ただの虫刺されだから、あんなに真顔でじっと見られたら怖いんだけど」

「えっ、怖い? 俺が? ……そ、そうだったかな。ごめん」

 トキシンは存外素直に謝ってくれた。そうしおらしい態度をとられるとこちらも強く出にくい。普段から散々理不尽な目に遭わされているのだから、こういう時くらいきちんと文句を言わせてほしかったのだが。まあ、トキシンに害意がないのであればそれ以上何を言うこともない。

「虫刺されの薬ってどこに……あ、いや、そういうのはないんだっけ」

「ああ。それなら、こないだ人間用の常備薬を一式買ってきたよ。まあ、お前の役に立つかはわからないんだけど……」

「あ? アレ、虫刺されの薬なんて入ってたか?」

「さあ。俺たちには必要ないものだし」

「……わかった。とりあえず探してみる。どこにあるの?」

 場所だけ訊いて薬箱を探しに立ち上がる。

 この家の住人の大多数は人間ではないので、基本的に人間用の常備薬を必要としない。あるいはわたしだってそうなのかもしれないが――思い返す限り、体調を崩したときは普通の薬を処方されてきたはずだ。虫刺されの薬だって使った記憶がある。今願うのは、彼らの買ってきた薬が普通に使えるものかどうかという点だけだ。たぶん、きっと、大丈夫だとは思うけど――

 そんなことをぐるぐる考えていたからだろう。サイドテーブルの上で置きっぱなしにしたスマホのことにまで気が回らなかった。

 

「……」

「……ねえ、ヨル」

「ンだよ」

「彼女、画面をつけたままスマホ置いて行ったね」

 意識して視界から遠ざけていたものを指摘され、オレは舌打ちしながら顔を上げた。相変わらずトキシンに悪びれる様子はない。

 トキシンが次に何を言うかはなんとなく察していた。

「……見る?」

「見ねぇよ。オレがそんなダセェ真似するわけねーだろ」

「そう? でも、ヨルだって気にならない?」

「何が」

「彼女の交友関係とか。俺たち、同じ学校に通っていたみたいだけど、それに気付いたのは最近だろ? 彼女には普通に友達がいるだろうし、もしかしたらそれ以上の……」〝それ以上〟は続かない。「気になるんだよね。彼女、俺たち以外にどんな人とどんな話をしてるんだろうって」

 悪意なくそう言い切ってみせるからたちが悪い。ついでに気色悪い。明らかに異様な発言だというのに、当の本人はまったく自覚が無いことに一層苛立ちが募る。

 いくらオレたちとアイツに過去の縁があるとは言え、オレたちには妙な役目が与えられているとは言え、この関係は突き詰めれば赤の他人でしかない。置かれた状況こそ異常なせいでつい忘れそうになるが、アレだって予告なくオレたちと関わることになった、ある意味で被害者だろう。

 それを、トキシンはまるで自分の大事なもののように扱う。その自他の線引の曖昧さには吐き気すら覚えた。

 というか、そもそも。

「あのイカレ女の交友関係なんざ知ったこっちゃねーんだよ」

「えっ……気にならないの?」

「気にならない。興味ねぇ。何度も言わせんな、ボケが」

「ええ……うーん、そっか……」

 しばらくの間はしおらしく黙っていた。

 しかし、次の瞬間には晴れやかな表情で、

「でも、俺は見たいから」

 と言い切ってみせる。

 やはりオレの手に負えるヤツじゃない。トキシンが何をしようが知ったこっちゃないと無視を決め込む――が、そう都合よくはいかないようで。意気揚々とスマホを手にしたトキシンは、あろうことかその中身を声に出して実況し始めた。

 ぎょっとして自分のスマホから顔を上げると、トキシンはしたり顔で薄ら笑いを浮かべた。

「ほら、やっぱりヨルも気になってるじゃん」

「ハア? アンタの悪趣味と一緒にすんな!」

「そんなに恥ずかしがらなくていいのに、何を意地張ってるんだか。ほら、ヨルも一緒に見ようよ」あの女が席を立った距離をずいと縮めてくる。「うーん。この名前は友達の女の子かな。昼休み、よく一緒にご飯食べてたみたいなんだけどさ、何度俺が誘っても連れて来てくれないんだよね。普段の彼女がどんなふうに過ごしてるのか訊いてみたいし、直接訊くより彼女のことを知られそうだし。俺は一度話してみたいんだけどさ――」

「ああもーうるせぇ、shxxit! やめろバカトキシン! オレを巻き込むな!」

「は? 待って、これ男の名前? 誰だよ。俺知らないんだけど……」

「だから、オレの話を聞けっつの!」

「――二人とも、なにしてるの?」

 ぴたりと時間が止まる。

 スマホを覗き込むトキシンの横顔が、分かりやすくしまったという表情で固まった。あれだけ悪気なく人のスマホを物色しておきながら、一応バレたら怒られることは理解していたらしい。これで少しは痛い目に遭えばいいと本気で思うと同時に、嫌な予感がひしひしと迫りくるのも察していた。背後から投げかけられた主語を反芻し、口の中に苦いものが広がる。

 最悪だ。やはりトキシンの思い付きに構ってロクなことなどひとつもない。

「こ……これは、その」トキシンは歯切れ悪く口を開く。

「なに?」

「その、えーっと。お前がスマホの画面を点けっぱなして離れたからさ、そのままにするのも良くないかなって思って……」

「へえ。〝良くないかなって思って〟――それから、わたしの連絡先を勝手に覗き見たの?」

「い、……いやでもっ、これはお前もわる――」

「最――ッ低! ほんっとあり得ない! トキシンの馬鹿!」

「ば……」打ちひしがれた顔で目をまるくする。「馬鹿って、さすがにそれは酷くない⁉」

 一体何をどう判断してその結論に至るのか。トキシンの思考回路はさっぱり分からない。それには彼女も同感だったようで、心底軽蔑する視線を向けながら、茫然とするトキシンから自分のスマホを奪い取った。

 それから、すれ違い際にオレのこともキッと睨む。

「……ヨルもヨルだよ! 最低なのはトキシンだけかと思ってたのに!」

「は――はああ⁉ オイ待てアンタ、訂正しろ! オレはこのクソド変態野郎とは違うっつの! つーかアレは不可抗力だろ!」

「知らない! ふたりともまとめて嫌い!」

「きっ、きらい」

 視界の外でトキシンに追撃が入る。

 その隙に、彼女はリビングを出て行った。乱暴に閉じられた廊下の扉がバン! と大きな音を立てる。きっと自室にでも籠るつもりなのだろう。たびたびあることだった。

 この場に残されたトキシンは、力なくソファに座り込んだ。

「……き、嫌いだって。あんなに怒らせたの、久しぶりかも……許してくれるかな」

「チッ、まずはオレに謝れよ。アンタのせいでオレまでとばっちり食らったやん?」

「はあ? それはヨルだって同罪だろ。というか、関係ないとか言ってたわりにはずいぶん突っかかるよね。彼女のことはどうでもいいんじゃなかったの?」

「Fxxk! 何を勘違いしてるのか知らねーけど、あの女は機嫌損ねたらめんどくせえってだけだっつの! この家のメシ用意してるの誰だと思ってんだ、アイツのぶんだけ別に取り置くとかクソめんどくせえんだよ!」

「……まあ、そういうことにしてあげるよ」

「言っとくが、アンタが原因なんだからな? ったく、何様のつもりだよ」

 本当に面倒なことに巻き込まれた。辟易しながら、とりあえず今晩の献立は冷凍して小分けにできるものへ変更しなければと考え直す。いちいちあんな女のために、夕食の後から作り直すなんてまっぴらごめんだ。

 意地っ張りでわがままな人間だ。しかし、存外律義な部分があることも知っている。放っておけば自分で機嫌を直して、明日にでも部屋から出てくるだろう。今はあのじゃじゃ馬が大人しくなることを待つしかない。

「ねえヨル。謝るならお菓子かな? それとも花束?」

 ――とりあえず、今オレがすべきことはひとつ。

「おいトキシン、アンタのお花畑なめでたい脳ミソにもよく分かるよう、簡単に言ってやるぜ――余計なことは絶対すんな。アイツの部屋に行くのも、しつこくメッセージ送るのもナシだ。いいか、分かったな!」

あの子に素敵な花束を|CARNELIAN BLOOD|赤刎トキシン・杠葉ヨル